2010/12/18

銃撃戦について色々考えてみた。

 最初に注意! 今から僕が書くのはリアルな銃の話じゃありません。映画や小説における銃撃戦描写、銃の演出に関しての話です。ご了承ください。

 最近の僕のブームは「なんとなく知っている」ことを、「知っていた」と確認することなんですね。いきなりなんだそりゃ、と思われるかもしれませんが……。じゃあ、まずここから。

 僕の尊敬する作家にジョージ・オーウェルという人がいます。1950年没。代表作は『動物農場』『カタロニア賛歌』『一九八四年』。特に凄いのが『一九八四年』。この本の発表は1949年なんですが、今でも「SF」として通用するディストピア文学の傑作です。読み返すたびに何か発見がある、という。……で、この『一九八四年』の文中にこんな文章があります。主人公がある本を読んで感想を述べるシーンなんですが。

 最上の書物とは、読者のすでに知っていることを教えてくれるものなのだ、と彼は悟った。
(中略)
 実のところ自分の知らない何かを教えてくれているわけではない。
 自分がすでに持っている知識を体系化しているにすぎない。
 しかし一読してみて、自分が狂っているのではないことが前よりもよく分かった。

(ハヤカワepi文庫版、高橋和久訳)

 なんとなく「知っている」わけです、僕たちは。大抵のことは、無意識のうちに、ぼんやりと。でも、それを文章として体系化することには、意味がある。ここでようやく銃撃戦の話になるわけです。
「かっこいい銃撃戦はなぜかっこいいのだろう?」
 なんとなく直感的にかっこいい、というのはわかりやすい。それで十分な気もします。だけど、あえてこれをちょっと論理的に分解してみよう、と。この前、小説技法を教える講師の仕事をやったんですが、「なんとなく知っていること」って生徒さんに伝えるのが難しいんですね。
「ちゃんと知っていたこと」しか他人には説明できない。
 普段からこういうふうに理屈と論理を通しておけば、きっといずれどこかで役に立つんじゃないかと思うわけです。実例をあげながら、いきましょう。あんまりマニアックな映画を出すと誰にも伝わらない可能性が出てくるので……。鉄板なところでマイケル・マンの『ヒート』。


(ヒート、予告編)
 逃げる銀行強盗。ロバート・デ・ニーロ。
 追う刑事。アル・パチーノ。
 銀行襲撃から逃走まで、伝説とされる6分間の銃撃戦。
 この映画の銃撃戦が素晴らしいことに関して、あまり説明はいらないのが便利です。
 たくさんの映画評論家やガンマニアが熱い議論を重ねてきた映画です。
 これを参考例として、「いい銃撃戦とは何か?」考えてみます。

 ちょっとだけ、僕の実体験の話。いや、あなたの実体験、に置き換え可能な話です。
 銀玉鉄砲でもゴム銃でもエアガンでも実銃でもなんでもいいんですが、いわゆる「飛び道具」を使ったときに、どんなことを感じるものでしょうか。飛ばしたゴムが紙コップを引っくり返した瞬間。撃ちだした弾が遠くの的に穴を開けた瞬間。僕は「自分の手が伸びた」ように感じました。実銃を撃った時が一番凄かったです。一種の「万能感」があった。「俺の手は遠くても届くぞ」っていう。
 距離はあっても、「そこは安全地帯じゃないよ」と。
『ヒート』の話に入る前に、僕の好きな小説・ノンフィクションの銃器描写を三連発で紹介します。
 最初にスティーヴン・ハンター『極大射程』のワンシーン。

 そこで、ライフルを肩に当て、開いた膝の内側でひじを安定させ、前かがみになり、ライフルの十ポンド重みで腕を固定した。
 これでライフルは、筋肉ではなく骨で支えられることになる。
 ボブが作ったのはライフルと大地を結び付ける骨の橋だった。
 ライフルは大地につなぎとめられ、筋肉繊維の気まぐれも心臓の鼓動も脈拍も、最後の瞬間にボブを揺るがすことはできない。


 次にクリストファー・ウィットコム著『対テロ部隊HRT』のワンシーン。

 運がよく、すべてが完璧に運んだとき、そのふたつがともにおとずれる。
 コールド・ゼロ。
 外部の影響はすべて意識下に消えうせる。
 周囲の世界は自分を置き捨て、弾道を支配する複雑な要素など知らぬげに、どこか他の場所でまわっている。
 いっぽうここでは、小さな弾丸をまちがいなく二五〇ヤード飛ばすために力を合わせているライフルと人間に、全世界が集約されている。


 最後に、エリック・L・ヘイニ著『デルタ・フォース極秘任務』

 じきに、それが快感になった。流れるような感じ。
 自動的ともいえるやりかたで、室内の安全を確保していく。
 ターゲットが自分の区域にいれば撃ち、弾着は確認しない──撃つ前から、命中するとわかっているからだ。
 拳銃もしくはサブマシンガンは目の動きにつれて動き、いっぽう頭脳は前方を測距している。両手に握った武器が動き、発射されるのを感じ、何発撃ったのかを数えるが、銃声に耳を澄ましてはいない。


 引用したのは、僕にとって印象的だった描写ばかりです。もう、ピンときた人もいるかと思いますが、この三つのシーンは「銃器が体の一部になる過程」あるいは「銃器が体の一部になったあと」の描写なんですね。特にスティーヴン・ハンターはやっぱり凄い。「骨の橋」なんて表現、よほど銃が好きじゃなきゃ出てこないですよ。銃器の表現が「肉体的」です。
「銃器が体の一部になる」
「その銃器が、遠く離れた標的を撃つ」
「自分の手が伸びたように感じる」
 ここに原始的な快感があるのは疑いようがない。道具によって解発される快感。身体性拡張の快感、です。竹馬もローラースケートも巨大ロボットも、原理は同じです。
 映画『ヒート』において。ロバート・デ・ニーロがエレベーターで自分の拳銃をチェックするシーンがあります。スライドを少しずらして、薬室の弾丸を確かめる、という。この映画の銃撃戦アドバイザーは、元SASのアンディ・マクナブ。ちなみに、マクナブは自分の小説でも同じことをやります。彼の著作『リモート・コントロール』より一部引用。

 ヘッケラー&コッホUSP九ミリ口径。すばらしい銃だ。
 銃身の下にレーザー・ポインターまでついている──ビームがあたったところに銃弾もあたるという寸法だ。
 何度も深いため息を漏らした。気を鎮めると、視線を落とし、薬室を点検する。遊底を少し引く。真鍮の薬莢がちゃんと収まっていた。


 実銃は、薬室に初弾が装填されていないと撃つことができません。
 安全装置は、指で触ればどうなっているかわかります。(銃器にもよりますが)しかし、薬室の初弾がどうなっているのかは、外から見てもわからない。実戦では、万が一のミスは許されない。
 ──ちゃんと初弾は装填されているか?
 でも、もう一度スライドを引けば一発無駄になってしまう。
(薬室に弾が入っている状態でスライドを引くと、排出される)
 だからこそロバート・デニーロは、スライドをちょこっとだけ引いて、中の弾丸を確認してからそっと元に戻したわけです。銃器への慣れ、プロのテクニック、実戦での微かな不安、絶対に失敗できないという緊張感。銃器描写が身体的な感覚をともなう瞬間です。
 そして銃撃戦が始まると、ロングの画に凄まじい力がある。撃つもの、撃たれるもの、そしてその周囲が一枚に収まる。特に、銃を構えた人物の肩越しの構図がたまりません。のちに、ゲームのTPSというジャンルでおなじみになる構図です。この構図の上手さが、身体性が拡張されたことを示す距離感の表現につながる。(下手な銃撃戦だと、なぜか顔のアップが多くてわけがわからなくなったりする)マイケル・マンは銃撃戦の「遠さ」を表現するのが上手い。逆にジョン・ウーだと銃撃戦の「近さ」が上手い。あと、弾倉交換も重要です。花に水をあげるのが大事なのと同じ。水泳の映画があるとして、「誰も息継ぎしてない」ってことになったら大変ですよね。現実の銃と違って、フィクションに登場する銃の描写は、肉体的なほうがしっくりくるんです。

 今回はそれにしても引用が多すぎですね。ええと、じゃあ最後に結論みたいなやつを。少なくとも僕にとって、いい銃撃戦には二つのポイントがあります。
 一つ。「ただの火を噴く小道具ではなく、登場人物の身体感覚を通して銃器が描写されているか」
 もう一つ。「身体感覚を表現するための距離感は画面や文章にあるか」この二つです。もちろん「うるせえなあ、面白いもんは面白いだけで十分だよ」という感覚もありだと思います。色々考えた末に「わかったような気になってるだけ」の状態もよくあることなので。常に自戒しつつ。
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